THE NBA IN JAPAN(NBAイン・ジャパン)
1994年11月5日(土)、6日(日)。新横浜の横浜アリーナで1994 NBA OPENNING GAMES IN JAPAN、NBA公式開幕戦が行われる。グレート・ノースウェストの雄、オレゴン州ポートランドにフランチャイズを持つポートランド・トレイルブレイザーズとウェストコートの経済・文化の中心地、カリフォルニア州ロサンジェルスのLAクリッパーズが対戦する。
今年(1994年当時)で3度目の開幕戦となるが、第1回目は1990年東京体育館でのユタ・ジャズとフェニックス・サンズの対戦。
カール・マローンとジョン・ストックトンのコンビと、KJことケビン・ジョンソン、ジェフ・ホーナセック、トム・チェンバースのトリオは1勝1敗と星を分けた。連戦の事をバック・トゥー・バックゲームとアメリカでは言うが、アウェイで勝つことは非常に難しいといわれる。ここ日本でもユタのジェリー・スローンとフェニックスのコットン・フィッツシモンズの両コーチの意地がはっきり表われた試合で大変見応えがあった。
北米大陸以外で公式戦が行われるのは史上初のことという。観る側にとってもこれ以上の幸福はないというシチュエーションではあったが、あらゆる場合に見せてくれる強烈なプレイもさることながら、NBAという組織でそれぞれのチームが垣間見せるレギュラーシーズンに対する激しさは我々に大きなショックを与えてくれた。
まず、ユタ・ジャズは成田に到着するとその足で目黒の碑文谷・第一勧銀の体育館に直行、1時間半の間、みっちり汗を流した。旅の疲れや時差などものともせずにだった。
次に来日直前のトレード。ユタとワシントン、サクラメントの3ウェイのトレードだったが、これによってジェフ・マローンが来日した。情容赦のない非常なプロの一面を見る思いがしたものだ。そしてコートの上でマローンは10年も前から一緒にプレイしていたかのようなコンビネーションを見せていたのも驚きだった。
その他、後に大きく成長しフェニックスの屋台骨を支える役目となるダン・マーリーはまだまだのプレイヤーだった。あまり印象は残っていない。
ファンの応援では大きく感動させられた事があった。86-87シーズンからTV東京系のNBAスーパーシリーズ、翌年からのNHKのスーパースタジアムでNBAの放映がスタートしていたが、3年もたってみるとアリーナはほとんどアメリカ状態になっていた。
アメリカの観客に比べて若者が多かったものの、それぞれが個々にゲームをエンジョイし、応援しまくっていたのである。
なかでも、プレイヤーを応援するサインボードの中に“OVERSEAS DELIVERY”と書いたものを見つけた時には、正直、涙が出てきたものだった。もちろんカール・マローンのファンが持ってきたものだったが、日本もここまで来たか・・・。という思いだった。
まだNBAが全然誰にも気にも止められない頃から「月刊バスケットボール」誌に原稿をアメリカから寄せてくれたK記者と一緒に観戦していたが、彼も同様な感じを持ったようだった。
第2回目は1992年、アリーナを横浜に移してのヒューストン・ロケッツとシアトル・スーパーソニックスの対戦。
初来日の時のチームと比べると随分リラックスしていたのが大きく印象に残っている。両チームともユタ、フェニックスに取材済みだったフシが多く見られた。
ロケッツはオラジュワンの契約問題も来日する飛行機の中でのオーナーとの対談で解決し、すっきりとした気分で試合に臨んだ。しかし、プレシーズンゲームで影の立役者のおーティス・ソープを故障で欠いた事が大きく影響していたようだった。ケニー・スミスは本来の力を出し頑張っていた。
一方、シアトル・スーパーソニックスは若きエースショーン・ケンプとゲイリー・ペイトンを中心に、リッキー・ピアースやエディ・ジョンソンというベテランが支える布陣を敷いていた。
この両チームのマッチアップはシアトルの2連勝で終わったが、ヒューストンのソープの欠場は予想以上に大きかったようだ。
この年から開幕戦を日本で行うチームは、アメリカへ帰ってから1週間後かにホームゲームからスタートする、という方法がとられることとなった。外国に出ていないチームとの対戦でもハンデのないイーブンなスケジュールとなった訳だった。
いずれにせよ過去2回の開幕戦は日本のバスケットボールシーンに多大なる影響を及ぼしたのだった。
試合にかける選手の集中力はいわずもがな、ゲームのショウアップの仕方、チアリング・・・etc。
本物であるからこそ、多くのファンの心を揺り動かし、それまでのバスケットの在り方をも変えてしまった。
1年おきではあるが、至福の時が必ず11月に訪れる日本のバスケットファンは、世界一の幸せ者なのであろう。
無条件で楽しまなければ、バチが当たるというものだ。